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June 2007

2007.06.24

猫の不思議

 うちの黒猫、みるく。この子は赤い首輪をしている。買ったときは、赤い鈴が付いていたのだけれど、いつの間にかなくなっていた。
 猫は鈴が付いていないと、一体どこにいるのか、どこを歩いているのかわからない。で、旦那さんが鈴を持ち帰り、みるくの首輪につけたのだが・・・。
 その日から、みるくが姿を見せない。家のどこかに入るのだけれど、家人の前に姿を見せないのである。
 どうやら鈴が気に入らないらしく、鈴を取ろうと躍起になっているらしかった。前の鈴ももしかしたらそれではずしてしまったのかもしれない。
 いつもなら、私が外出から帰ると、とら、と一緒にどこからともなくやってきて、「おやつ、おやつ~~~」とねだるのに、絶対に姿を見せない。夜もいつの間にか足元にやってきて万歳して眠っていたのに、出てこない。
 そのうち、とらにまで異変?が起こりだした。やたら吐き戻すのだ。初めは毛玉を出しているだけかとも思ったけれど、毛玉がたまりにくい餌を食べているせいか、ほとんど毛玉を吐き戻すということはなかったとらさんだったのに。
 昨夜、久しぶりに出てきたみるくを捕まえて、首輪から鈴を取ってあげた。そうしたら、あんなに隠れていたのに、嘘みたいに普通にみんなの前でくつろいでいる。万歳して寝ている。とらさんも吐き戻しがぴたっとやまった。
 いったい、なんなんだ・・・。まあ、普通に戻ったんだからいいんだけど・・・(^_^;)
 と、思っていたら、旦那さんがぽそっと一言。「あの鈴、使い込んだお守りの鈴だったんだよな~。だから、いやだったのかな~?」だって。
 まあ、なんにしても猫は不思議な生き物だわ。

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2007.06.12

今、流行?の年金照会してきました。

 体をふつーに動かしてもOKになったので、体力回復のため、ぼちぼちとあちこちでかけるようになりまして・・・。
 で、時間もたっぷりあることだし、働き出したらできないことをしなくては!と言うことで、今、話題の社会保険事務所へ行って来ました。
 私は、社会へ出てから、結婚事情も含めて、引越しを3回、転職を4回していて、その間に旦那さんが無職の期間も半年ほどあって、自分の年金がいったいどんなふうに記録されているのか確かめたことがなかった。
 で、年金手帳を出してみたら・・・

 昭和5X年3月21日付で厚生年金保険番号が、昭和6X年7月21日付で国民年金番号が交付されていた。平成9年1月1日付で基礎年金番号が交付されている。
 基礎年金番号交付の際に、年金番号を統一する申告をした覚えがあるのだが、それも定かでない。
 住所欄には、結婚前の住所、義父母と同居していた時の住所、今よりひとつ前の住所の記入があって、今の住所は記入してない。
 国民年金の記録は、いつ照合したか覚えがないが(多分、下の子が産まれて1年後くらい)市役所の窓口だったと思うが、そこで記録してもらった跡がある。これがよく見ると最後の国民年金の取得日がおかしいんだな。
 厚生年金の記録は、自分の字で書き込んだ事業書名が二つあった。

 午後2時過ぎに地元の社会保険事務所へ行った。年金の請求窓口は30番待ちだったが、年金記録照会は8番待ちだった。
 私は年金記録照会だけだったので、番号札を取って待合コーナーに座って待っていた。事務所の玄関にも各階のコーナーにも職員さんが立っていて、それぞれのニーズに合わせて、担当場所を案内している。
 待つこと20分強、自分の番号を呼ばれた。どうやら10人近くの人が記録照会を担当しているみたいだ。
 やはり、照会してもらう人が多いせいか、私は会議室へ案内された。(他の人も応接室とか他の会議室に案内されていたよ。)
 年金手帳を出して照会してもらう。「被保険者記録紹介回答票」というのを出してもらって、そこに厚生年金・国民年金の記録があった。そこには、各年金の取得年月日と喪失年月日、掛けた月数が記載されている。
 それとは別に、「被保険者記録照会(納付Ⅱ)」と言う書類もあり、そこには、年度と月(4月~翌3月までの一年分)に記号が付いている表のようなものが記載されていた。記号は、厚生年金分・国民年金分・未納分・第3号分・3号特例納付分に分かれている。
 結局、私は成人してから働くまでの2ヶ月間と最初に就職した会社から次の会社までの8か月分の国民年金を支払ってないことと、厚生年金を支払っていた期間に国民年金未納2ヶ月分プラス第3号扱い17か月分があることがわかった。

 あらら~、である。国民年金未払い分は心当たりがないわけではないので、なるほどと納得できたが、厚生年金だったのに未納とか第3号扱いってなぜ?と不思議だった。
 社会保険事務所の人は、第3号特例納付申請をした時にその日付からさかのぼって特例になったのではないかと言っていたが・・・。
 第3号特例の期間に当たっている日付の記録を見ると「平成2年3月~平成5年11月」となっていたから、もしかすると国民年金の記録を照合した時に、市役所の窓口の人がしてくれたのかもしれない。
 その時のことはもう詳しく覚えていない。でも、窓口で書いてもらった国民年金の記録欄の取得日が平成2年3月になっていたから、そこで間違いがあったのだろう。どうして、自分でそこで「それ、間違ってますよ。ここからこの期間は厚生年金払ってました。」と言わなかったのか、それも覚えていない。

 たぶん・・・。私はその当時、国民年金と厚生年金の違いも重要性も理解してなかったのだろうな。第3号扱いが云々と話題になっていたのがその頃だと思うのだけど、その時にとりあえず、ちゃんと払ってないとダメじゃんと思い、市役所へ行ったのだと思う。で、窓口の人に、「ちゃんと第3号になってますよ。」と言われ、深く確認もせず、気にも留めずにそれで良いと思ったのだろう。

 ん~~。なんか、反省。こんな感じで、自分が日本国民として持っている「義務と権利」を知らないこと、他にもありそうだ。
 介護保険についても、他の税金についても、給料から天引きされているから、あまり実感がないのが一因だろうけれど・・・。
 国の仕組みとか、法律とか権利とか義務とか、学校で習ったのか?社会へ出てから教えてもらったか?学校で公民とか言う授業があったが、それがそうだったのか?ん~~。記憶が風化している・・・。

 自分のこと、自分で責任持って管理するのは当然のこととは言え・・・。高校を出てからある程度のことは自分でやってきたとは言え・・・。高校を出てから、結婚するまでの何年間のことで、親が先回りしてしてきたことは覚えがない。でも、この歳になってしまったら、親がしてくれたから私知らないも~ん、ではすまないから、公的なことに関わらず、自分に関することはもう一度きちんと洗い出そうと思った・・・。

 と、言うわけで、年金納付についてはすっきりした。私は、とりあえず、年金受給年齢になったら、その年代の平均的金額をもらえそうだ。
 社会保険事務所の人も今はかなりいろいろ叩かれているからか、低姿勢で丁寧ではあった。でも、どこか人ごとだったけどね(笑)

 不安のある人は社会保険事務所で自分の年金確認してください。地域にもよるだろうし、時間にもよるだろうけれど、上手くいけばたいした待ち時間なしで照会してもらえるかもしれない。
 特に、何度か転職している人、結婚している人、引越ししている人で、その都度自分できちんと確認してない人は、照会してもらった方が良いかも知れないです。厚生年金支払ったのに、国民年金扱いになっていたりするし。
 あ、それから、照会票はちゃんと自分の名前確認してくださいね。特に、姓が変わっている人とか名前の読みが何通りも考えられる人。事務所の人が間違えてカタカナ入力して苗字が違ってたりするよ(^_^;) 私、旧姓が「マ行」だったのだけど、思い切り間違えて照会されてましたから(^_^;) 

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2007.06.11

よくわからない夢

夢のお話。

 新しいバイトが決まって(現実にはまだ決まってないが。)、休憩時間。休憩室に行くと前のバイト先の事務員さんがいた。どうやら、同じ敷地内に前のバイト先の営業所が引っ越してきたようだった。
 まだ、朝のうちな時間で、私は小休憩でお茶しに来たのだけど、テーブルの上にはお弁当が置いてあった。一つは私の分だと言う。私は自分のお弁当は持ってきているし、頼んだ覚えもないので不思議だなあと思っている。
 忘れ物をしたらしく、私は休憩室を出て、事務所へ戻る。自分の事務所へ戻るには、前のバイト先の事務所を通らないと行けないようになっていて、相変わらず乱雑な事務所だなあと思いながら通っていく。途中であった現場の人たちに仕事のことで聞かれるが、私はすでに辞めているのだから、よくわからないことばかりだった。
 休憩室へ戻ると、事務員さんはお弁当を食べていて、仕事の手が空いた時間にお昼ご飯を食べて忙しい時間に仕事をすることになったんですと、私にもお弁当を進めた。でも、私はそこは辞めたんだから関係ないよね、と休憩室をあとにした。とっくに辞めていて、他のバイトをしているのに、まだ一緒に働いているみたいに思う彼らを不思議だなあと思っていた。

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2007.06.09

点と点を繋ぐ・・・流産を経験して思ったこと

 日常にない経験をすると、いろいろなことを考える。

 流産した人に、よく「次があるから気にせずに、前向きに。元気出して。」と声をかける。確かに、そうだ。流れていってしまった命をくよくよと思っていては、流れてしまった命も幸せになれないし、その人も幸せになれない。次に授かった命にも良くないかもしれない。

 若ければ、次の妊娠を望んでいるのなら、確かに次があるからくよくよせずに過ごしていくべきだと思うけれど。でも、望んだ命をなくしたすぐに「次があるから・・・」と言われたら、流れていってしまった命を軽く言われていそうに思ってしまわないかと思ったりした。
 もちろん、慰めてくれる人が流れていってしまった命を軽く思っているわけもないだろうし、流れていった命よりも、この世に存在する「その人自身」を何より大切に思っての言葉だとは思うけれど。
 あまりにも早く、お腹の中から出してしまうことに、感情がついていけない人もいて、その後遺症で、人からもらう親切な言葉にもナーバスに反応してしまう人もいるだろうなと思った。

 私の場合は、いろんな条件が重なってそれを踏まえての診察だった。何かあった時も喘息のため麻酔は極力避けたいとの医師の考えがあったので、妊娠経過は細かく見てもらえた。
 だから、稽溜流産も比較的早くわかったし、それぞれのリスクはあっても手術より自然流産の方が安全だと判断されたから、赤ちゃんが流れていくまでその子のことを思えたし、実際に流れていく過程で赤ちゃんのことをきちんと見送ってあげられたように思う。
 お腹の中に育ってない赤ちゃんを抱いていた時、生きていないことがわかっていても愛しかった。慈しみたかった。大事にしたかった。流れていくまで愛してあげよう、流れていったあとも忘れずにいようと思った。

 けれども、普通なら、妊娠6~8週くらいに初めての検診を受けたら、その時によっぽど事情がない限り、次の検診は約1ヵ月後だ。6週7週だと、生理が遅れて2週間~3週間あとだから、自覚もある。8週ならば、早い人ならつわりだって始まる。
 初めて、望んだ赤ちゃんをお腹に宿したとわかったなら、誰だって嬉しいし幸せをかみしめるだろう。

 しかし、稽溜流産は流産の自覚がない。腹痛も出血もない。1ヵ月後、検診に訪れて、そこで初めて赤ちゃんが育ってないと告げられる。
 どれほどのショックだろう。どれほどの哀しさだろう。どれほどの辛さだろう。
 そして、次の妊娠を望む人なら、若い人なら、健康な人なら、稽溜流産と診断されたら多くの人が診断されてから一週間たたない間に手術を受ける。麻酔をかけ意識のないまま、今度目覚めたら自分のお腹の中には赤ちゃんがいない状態になっている。

 育たない組織を体の中に長く留めておくことは母体によくないことも、自然流産の痛さもリスクも考えれば、それは間違った方法ではない。
 だが、望んで宿した赤ちゃんを温かな愛情と幸せの中で育てていたつもりが実は死んでいると告げられる時のショック、そのショックも受け止められないままに迎える手術。本当に辛く、哀しいことだ。

 でも・・・。
 流産と告知されてすぐの手術はメンタルな部分でも悪くはないと思う。なぜなら、流れてしまうまでのあの痛みと苦しみ、後悔のような自責のような気持ち、それらは、できるなら軽い方がいいとも思うから。

 流産と言われても、実際経験していないとどんなものかはよくわからないだろうと思う。ドラマとか映画とか小説とかで流産の描写はあるし、流産の種類によっても症状は違うと思うけれど。稽溜流産の場合(と言うか、私の場合)、よくイメージされているような突然激しい腹痛が襲い、すぐに出血がはじまるようなものではない。
 普通のお産のように、「お印」と呼ばれる少量の出血があり、陣痛が始まり、最後は本当の出産と同じように5分間隔の陣痛があった。破水の代わりに出血があったけれど、赤ちゃんの組織を産み出すまで本当に苦しかったし、痛かった。

 流れていくとわかっている子をあの痛みの中で、子を授からなかった哀しみと自分のせいで流れていくのではないかと言う自責の思いを抱きながら過ごすのはあまりにも辛いだろうと思う。
 私は、体の事情もあったから必然として自然流産を選んだが、この歳でなければ、辛くて仕方なかったのではないかと思う。
 あまりの痛みに、こんな痛みをなぜ負わす?とか、私一人のせいじゃないのにどうして痛い思いをしなくちゃいけない?とか、こんな痛みを感じるくらいならさっさと手術すればよかったとか、あとで思い起こして、さらに後悔するような考えを持ってしまうかもしれない。て言うか、本当にすごい痛みなんだ。そんな風に思ってしまうような痛みなんだ。その痛みは体だけの痛みではなく、心も痛いんだと思う。

 どれほど人から慰められても、哀しみと後悔から逃れられないのなら、少しでも痛みや哀しみは軽い方がいい。
 そう思うと、一見、残酷のように見えるすぐの手術も、たくさんのケースを経験してきた医師側が選んだ最上の方法なのかもしれない。

 どんな事でもそうだけど、見えている「点」だけを見て、それを批判したり賛成したりするのは簡単だ。だけど、「点」と「点」を繋げて、初めて「そうなんだ」と納得することもたくさんあるんだと改めて思った。

 このブログを読んでくれる人の中には、「流産」について検索してたどり着いてくれた人もいるようだ。
 流産することは辛い。心も体も本当に辛く、苦しい。高齢で積極的に望んでいなかった妊娠でも、流れてしまうことが辛く切なかった。
 望んだ妊娠ならなおのことだろう。
 もし、このブログを読んでくれている貴方が不安を感じているなら、辛さを感じているなら、どうか、ゆっくりと過ごしてほしいと思います。流産してしまうのは、お母さんのせいではないのだから。

 子どもは授かりもの・・・と、よく言われるけれど、本当にそうだと感じる。こればっかりは医学などでいくら説明がついても、「命」はどこで宿るのだろう?と、不思議がいっぱいだ。
 だから、自然に「授かりもの」と思うし、どんな結果になっても、それはそうなるのが関わるすべての人々にとって「幸い」なのだと、神様が采配してくれたのだとそんな風に思える。

 今、不安を抱えて過ごしているお母さん、すでに終わってしまってなおかつ自分を許せないお母さん、流産してしまうことを罪とは思わないでください。流産したと言う事実に囚われず、育たず生まれなかった赤ちゃんに囚われないでください。自分の体と心を労わり、流れてしまった赤ちゃんのことは温かな気持ちで覚えておいてあげてください。
 辛く哀しく苦しかった分、温かな愛情で心を満たし、自分や周りの人と一緒に幸せになってください。

 合掌・・・。
 

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2007.06.06

経過報告その2

 今日、病院で検診を受けてきた。まだ、少し後産があって、でも、今日の治療できれいにしてもらった。薬をもらって、その薬を飲み終わった時点で完治という診断だった。
 なんだか、頭痛がするけれど、それの原因が何なのかはわからない。処置してもらったから、少し痛いかな。だるい感じ。でも、一日二日たてば、気にならなくなるだろうと思う。

 「その1」に書いたような経緯で、我が家は一人の子どもを失った。
 前にも書いたが、正直、この子を宿した時、産むか産まないか本当に迷った。年齢的なこと、体力的なこと、経済的なことを考えると産むことは本当に迷いがあったし、産むのなら強い決心をして産まないと後悔することもあるかも・・・とも思った。
 お腹で子どもを育てている時に、体力が持たずとても苦しい思いをしたりとか、出産時に万が一のことが起きて母子のどちらかに何かあったりしたらとか、産んだあと経済的に苦しかったりするとか、そんなことが起こった時に「あの時、おろしていれば・・・。」なんて、万が一にもカケラでも思うようなことは絶対にしたくなかった。

 お産は病気ではなく、誰でも経験しうることで、多くが無事生まれ育っていく。けれども、医学が発達していなかった時代にお産で命を落とすことがまれではなかったように、やはり女性にとっては「命を懸けて」のことに違いない。経産婦であっても、年齢が高ければ高いほどリスクも多い。
 それに、かろうじて自分のことは自分でできてはいるが、いつ倒れるかわからない義父母のことも頭にあった。
 義父は割りと新しい考えをしてはいるが、それでも昭和一桁生まれ特有の昔の考えを固持している。息子夫婦が頑固に別居を決意したから、仕方なく折れたけれど、今でも一人息子は親と同居が当たり前なのにそれをしていないと思っている。
 病気の親の面倒は、息子の嫁が見るのが当たり前。それが別居しているからできていない。自分の妻が、嫁には面倒をかけたくないと言うから自分がしているが、本当は自分がすることじゃない、でも、仕方がない、と、言葉の端々から感じられる。
 義母のわがままが過ぎているので、愚痴も苦労もたくさんあるくせに、介護サービスをどれだけ進めても受け入れない。一人息子が親と住まずに病気の親の面倒も見ず、よそ様に介護を押し付ける。そんな風に思うらしい。
 義父ならば、この年齢になって子どもを授かって、その子が育つ中で、「今頃子供なんか作って産むなんて。この子さえいなければ、自分達の面倒ももっと見てもらえたのに。」と否定することもあるだろう。

 反対に、何もかも考えず、産まれたら産まれたで、なんとでもなる!と、そんな思いもあった。高2と中3の娘も、新しい命を喜んで受けて入れてくれるだろう。私や旦那さんができないことも、娘2人が一緒になって育ててくれるだろう。
 最初の何年かは大変だろうけれど、それぞれが成人していくから、経済的にももしかしたらそんなに大変じゃないかもしれない。子どもが成長していく過程で、絶対に先に逝ってしまうだろう義父母だって、子どもがいるとなれば何がしか残していってくれるだろう。
 自分達の体力のなさは娘達が助けてくれるだろうし、経済力のなさはなんだかんだ言っていても義父母は援助してくれるだろう。生まれてくる子ども自身だって、成長するにつれ、自分のことは自分でできるようになっていくだろう。
 先の心配をしなくても、新しい家族ができれば、新しい生き方を選ぶことができる。それも、絶対に幸せの一つであると、そう思いもした。

 5月の16日に妊娠が確定して、17日に流産の疑いがあると言われるまでの間に、いろんなことを考えた。どうしよう、どうしたら一番いい?と、旦那さんと考えた。すぐには結論が出ない。でも、産まないのなら早く結論を出さないといけない。もし、産まないなら、自分の体だけが痛い思いをする時期までに手術をしたい。いろいろと考えた。

 17日に稽溜流産の疑いありと診断された時は、本当に複雑な思いだった。私は、なんというか、妊娠したら絶対に赤ちゃんは順調に育ち、普通に産まれるものだと思っていた。
 変な言い方だけれど、自分達の意思で中絶することはあっても、流産することは絶対にないと思っていた。
 それなのに、お腹の中の赤ちゃんは育っていないかもしれないと言う。不思議だった。自分の体には特に何も変調はない。

 23日に99%流産が確定された時には、つわりも軽く始まっていて、船酔いしたみたいに気持ち悪かったりしたのに。
 症状は明らかに妊娠初期なのに、赤ちゃんは育っていない。育っていない赤ちゃんをお腹に抱く。なんとも複雑な言いようのない気持ちだった。
 旦那さんも、この子を産むかどうか大きな葛藤があったが、流産と診断されたらされたで、やはり複雑だったようだ。細かい感情は表には見せなかったが、起伏は大きかったようで、子ども達に「お父さん、最近何か変だよ。」と言われていたりした。

 26日に出血が始まったと自覚した時、「ああ、流れていってしまう。」と思った。短いご縁だったなあ・・・と。産むかどうか迷ったくせに、流れていってしまう我が子を思うとやはり哀しかった。

 29日には、陣痛と同じような痛みがあって、どうしようもなく、睡眠も途切れ途切れだった。30日に受診するからその日は耐えていたけれど、この痛みは紛れもなく陣痛だなあと思った。
 2人の子ども達を産んだ時に、やはりこんな痛みだったなあと思い出す。あの時は、望んだ妊娠で子ども達も順調に育っていて、やっとこの世に産まれてくれると、その痛みに絶えてあまりある喜びが待っていた。
 同じ痛みなのに、流れていってしまうんだ・・・と思った。流れていってしまう子でも、産みの苦しみは痛みは同じなんだな。私は一生この子のことを忘れないだろう。形には残らなくても、私はこの子を産むんだと。

 30日はあまりの痛みに自分ひとりでは病院に行くこともできず、旦那さんについていってもらった。
 病院で処置してもらい、赤ちゃんが流れて行ってしまったあとも、すごく痛くて、だるかった。帰りの車の中で、どうしようもなく泣けてきた。人間って勝手なものだ。産まないと決めたかもしれない赤ちゃんだったのに。それでも、こうやって流れていってしまったら、どうしようもなく泣けてくる。
 夜も後産がすごく痛くて、なかなか眠れなかった。何もできずに痛がっている私を見て、旦那さんは辛そうだった。
 痛くて、辛くて、涙が出た。ごめんね、さよなら。と思いながら、痛みに耐えた。

 31日は体もずいぶん楽になり、気持ちも落ち着いてきた。前の夜に眠れなかった分、朝から昼過ぎまでしっかり睡眠を取って、自分のためにサンドイッチを作ってお昼を食べた。ゆっくりと過ごして、最低限の家事をした。

 6月に入ると体の方もだんだんと元通りになっていくから、日に日に楽になっていく。1週間も経つとほんの少し前にあんなに痛くて辛かったことなど忘れてしまったかのように、普通に日常が戻ってくるんだな。なんだか、夢みたいな感じ。

 深く考えると、とことん考えてしまいそうだから、あえて、さらっと受け止める。強く思い込んでしまうと、とことん思い込んでしまいそうだから、あえて、弱く思う。
 だからと言って、真剣じゃないわけではない。時がたてば、また考えることもあるんだろうか。
 書きとめると、言葉が足らない気がする。書きとめてしまうと、これがすべてのように見える。でも、書ききれない、言葉にならない思いもあって、それは現すことはできないみたいだ。
 このまま時が過ぎれば、現すことのできないこの想いは消えていってしまうのかもしれない。このままどこかへ消えていくか、自分の中に降っていくのか、それもわからない。
 でも、多分、こうして書いている以上の想いがあることだけは、この先の自分に「忘れないよう」言っておきたい。その意味も込めて、ここにこうして書き残して置く・・・。

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2007.06.05

経過報告その1

しゃぼんだま とんだ やねまで とんだ

やねまで とんで こわれてきえた

  しゃぼんだま きえた とばずに きえた

  うまれて すぐに こわれて きえた

かぜ かぜ ふくな しゃぼんだま とばそ

          作詞 野口雨情 作曲 中山晋平

 多くの人々がご存知の童謡「シャボン玉」の歌詞である。
 作詞者である野口雨情が早世した我が子を偲んで作った唄だという説がある。それが事実かどうかは私には知る由もないが、そう思いながら読んでみるとなるほどそうかもと思わせる。
 小学生の頃に覚えた歌だが、素朴な情景なのに、なぜこんな寂しい印象のある唄なのだろうと子ども心に思っていた。子ども達が元気な声で歌うよりも、ある程度の年齢の大人がしんみり歌ったほうが雰囲気があっているような気がしていた。
 ずいぶん大人になってから、我が子を偲んで・・・と言う話を聞き、なんとなく納得した覚えがある。

 私は4月の中頃に業務見直しによる人員整理のための解雇と言うことで、バイト先を辞めた。この件については、ずいぶん前からそんな噂を聞いていたし、私の目から見てもこの3年間で「営業所自体の売り上げ」はずいぶん減っていると感じていたので、突然の解雇通告だったにもかかわらず、ショックも憤りもなかった。
 バイト先は旦那さんの系列会社と言うこともあってか、週3回で就業時間も6時間程度の楽なバイトではあったが、3年と半年、何かと気を使い、ストレスもあったと思う。ちょうど辞めた時くらいは、旦那さんの就業時間が不規則で、年度末も手伝って帰宅時間が遅く、睡眠時間も少なかったりした。喘息の症状も芳しくなく、小さな発作もよく起こしていた。
 それでホルモンのバランスも崩れていたのだと思う。排卵時期が大きくずれていたらしい。もしかして・・・と思いつつ、市販の検査薬で検査すると、妊娠反応が出た。それが5月16日のことだった。

5月16日水曜日
 その日のうちに、産婦人科を受診した。受診結果は妊娠6週目。
 
正直、産むかどうか迷った。出産時の年齢は、自分が45歳、旦那さんが48歳。自分は4年前に発症した喘息に今も悩まされている。薬も毎日飲んでいるし、肺までとは言えステロイド吸入も毎日している。小さな発作もよく起こすし、大きな発作を起こせば呼吸困難に陥り、病院へ飛んでいくこともある。
 そんな自分が、胎児を育て、産む自信がなかったし、産まれた子が成人した時の自分達の年齢を考えると躊躇するものがあった。

 最初に行った個人病院の先生は、喘息を理由に、何かあった時に自分では責任が取れないから総合病院を紹介すると、地元の県立病院を紹介してくれた。何かあったときとは、流産した時、中絶する時、帝王切開する時、出産時自然分娩でも喘息発作が起きた時など・・・、そう言ったことに対応できないということだった。
 けれど、実は、その時点で稽溜流産の疑いがあると診断されていたのだった。

5月17日木曜日
 翌日、総合病院を受診した時に、担当医師が「産みますか?どうされますか?」と聞いてきた。私は個人病院でも「中絶の可能性も含めて・・・。」と話しをしてあったので、同じようにそう答えた。
 それで、少し安堵したように担当医師が言った。
「個人病院の先生も紹介状に書かれていますが、先ほどの診察の結果、稽溜流産の疑いが非常に濃いです。」
 私は、稽溜流産と言う言葉を初めて聞いたが、要するに、胎嚢( 胎児の袋 )は存在するが、胎児心拍が無い状態で、出血などの症状が無くてもすでに妊娠が中断している状態のことを言うのだそうだ。
 確かに。昨日も今日もエコー診察の映像を見せてもらったが、10何年も前に経験したときの赤ちゃんの影が袋の中に見えなかった。そして、個人病院の医師の歯切れがなんとなく悪い気がした理由もそれだったのかと思った。
 ただ、担当医師は、排卵日が確定できないから、疑いが濃いというだけで確定はできないとも言った。
 一週間後、もう一度受診する予約をして、血液検査を受けてその日は帰宅した。
 なんだか、不思議な気持ちだった。複雑な気持ちとはこんなことを言うのか、とも思った。
 望んだ妊娠でも待ち望んだ妊娠でもなく、もしかしたら産まないと決めた妊娠だった。心臓を動かすこともなく、おなかの赤ちゃんは静かにしている。それでも・・・。
 もし、流産ではなく育っていくのだとしたら、私は、私達夫婦はこの子をどうするのだろうか。このまま流産してしまうのだとしたら、どうして、私達はこの子を宿したのだろうか。
 考えても答えの出ないような思いが押し寄せてきた。旦那さんも動揺していたようだ。

5月23日水曜日
 そして、次の週。約一週間おいて再受診した。妊娠7週に入っているにもかかわらず、胎嚢の大きさは変わらず、育っていない。先週受けた血液検査と今週の診察前に受けた血液検査の妊娠に関する数値も変化がなかった。
 担当医は「残念ですが、稽溜流産と確定します。」と言った。
 普通、そう診断されると一週間待たずに、手術をするそうだ。
体内に育っていない組織を長く残していると、次の妊娠に影響したり、体によくなかったりするらしいからだ。ただ、私は喘息だし、次の妊娠も積極的には望んでいないと言うことで、経過観察となった。喘息患者は麻酔をかけるとアレルギー反応を起こし、呼吸不全となり危険なこともあるからである。
 もし、自然に流産するのなら、そちらの方が、体への負担が少ないと言うことで、そちらを選択することにした。もちろん、自然流産の場合でも、激しい痛みがあったり大出血があったりするので、そちらもけして安全な話しではないのだが・・・。
 万が一を考えて、次週も診察し、完全に流産と確定したら手術しましょうと、手術日の予約もし、次回は手術のための血液検査もすることにした。

5月26日土曜日
 それから2日。出血があるかもしれないからと言われていたので、それなりの手当てをして毎日を過ごしていた。
 初めはほんの少量だった。自分でも、気のせいかな?と思うほどの量だったけれど。最初の出血があってから1日、2日とたつごとに、気のせいではなく本当に出血しているんだとわかった。

5月28日月曜日
 丸2日たつと、お腹も痛くなってきた。感覚で言うと1時間に1回程度。生理痛のきつめ、陣痛のごく弱いもの、そんな感じの痛みだった。まだ、何か作業をしていると気がまぎれているが、じっとしていると、ずっとお腹が張っているような感じだった。
 病院に連絡をしてすぐに診察してもらう。流産が進行中で、まだ胎嚢はお腹の中にあると言う。そのうち自然に流れてくるだろうから、遠出はせず、普通に日常生活をしていていいと言われた。
 出血の量は顕著に増えることはなく、生理が始まって丸1日くらいな感じ。時々、腹痛があって、思わず「痛い」と口に出るような痛みだった。

5月29日火曜日
 腹痛は陣痛なのだろう。昼間は1時間のうちに1~2回くらいの痛みだったので、買い物に行ったり銀行に行ったり、とりあえずやっておかなければならないことをしておく。
 昼を過ぎ夕方から夜にかけて、腹痛はひどくなる。20分に1回が10分に1回、それが5分おきとなって、ものすごい痛みになる。お腹だけでなく、腰も痛い。骨盤が砕ける痛み、と言えばいいか。自然分娩した人ならわかるだろうか。とにかく痛い。出血は生理の一番多い日のような感じ。
 この一週間、体がだるく、だるさで眠れない・・・みたいな状態だったので、眠いのだけれど、痛くて眠れない。うとうととしては痛みで目が覚める。
 翌日の昼に診察を受けることになっていたので、ひたすら我慢して夜を過ごした。

5月30日水曜日
 夜よりも朝や昼間の方がすることが多く、気がまぎれるせいか、陣痛にも神経質にはならないが、やはり痛い。定期的にやってくる痛みに、うずくまりながら、子ども達のお弁当を作ったり、晩ご飯の用意をしておいた。
 昼過ぎ、旦那さんが病院までついてきてくれた。あまりにも痛みが激しいので、一人で運転することができなかったし。やはり2人の子だから、一度くらいは付き添いをしてもバチは当たらないだろうし。この日にお腹の子は流れて行ってしまうと確信もあったし。
 診察に入り、状況を説明すると、医師は「もしかしたらもう出てしまっているかもしれないね。」と言い、診察をしてくれた。結果はまだお腹にいるけれど、出始めているからこのまま処置することになる。
 変な例えだけれど、少し引っ張れば出てくるだろうと処置をしてもらった。痛かった。激痛ほどではないけれど、やはり痛かった。時間にすればほんの2、3分。
 ちゃんと出たけれど、後産があるから、まだしばらくは痛みますよ、と言われる。あとは薬をもらって、翌週に検診をする予約をして終わった。
 帰り道も帰ってからもすごく痛かった。だるかったし痛かったし。痛みを耐えるために体に力を入れるから、変なところも筋肉痛のような痛みもあるし。子宮収縮剤を飲むと、元に戻ろうとしているせいか、さらに痛みが増す。あんまり痛かったからその夜もあまり眠れず。

5月31日木曜日
 一晩明けても腹痛は続く。感覚がずいぶんあいてきたので、昨日、おとついのことを思うとだいぶ楽。でも、痛い・・・。とりあえず、子ども達や旦那さんのお弁当を作り、ゴミ出しをした。
 昨日は眠れなかったのだから、今から寝ちゃえと横になる。9時半は覚えているけれど、10時は覚えていない。途中、電話などで起こされるが、時間の感覚はなく、目が覚めたら昼の1時を回っていた。
 ごそごそと起き出して、昼食と洗濯。食事は薬を飲まないといけないので、お腹がすいていなくても少しは食べないといけない。
 時折、痛みはあるものの、昨日よりはずっと楽になった。腰がだるく、あちこちの筋肉も軽くだるい。
 それでも、だんだんと楽になっていくし、私の見た目は変わっていないのだから、しばらくすれば、このまま日常が戻ってくるのだろうと思う。

6月1日
 日々、体は元に戻っていく。たくさん動くとそのあとが痛くて大変だが、そろりそろりしていく分には大丈夫そうだ。痛みがひどい時に眠れなかったのが響いて、いまだに昼夜が規則正しくならない。変な時間に眠くて、夜眠れなかったりする。これも少しずつ直してちゃんと時間通りにしないとね。
 薬を飲んだ後は、腹痛に悩まされるけれど、時間がたてば楽になっていく。
 なんか知らないうちに月が変わってしまった。長い5月だったな。
 そんなことで・・・。5月に入ってから、あっという間の一ヶ月だった。一ヶ月しかたってないのに、なんかいろんなことがあって、いろんなこと考えた5月だったなあ・・・。

 

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