経過報告その2
今日、病院で検診を受けてきた。まだ、少し後産があって、でも、今日の治療できれいにしてもらった。薬をもらって、その薬を飲み終わった時点で完治という診断だった。
なんだか、頭痛がするけれど、それの原因が何なのかはわからない。処置してもらったから、少し痛いかな。だるい感じ。でも、一日二日たてば、気にならなくなるだろうと思う。
「その1」に書いたような経緯で、我が家は一人の子どもを失った。
前にも書いたが、正直、この子を宿した時、産むか産まないか本当に迷った。年齢的なこと、体力的なこと、経済的なことを考えると産むことは本当に迷いがあったし、産むのなら強い決心をして産まないと後悔することもあるかも・・・とも思った。
お腹で子どもを育てている時に、体力が持たずとても苦しい思いをしたりとか、出産時に万が一のことが起きて母子のどちらかに何かあったりしたらとか、産んだあと経済的に苦しかったりするとか、そんなことが起こった時に「あの時、おろしていれば・・・。」なんて、万が一にもカケラでも思うようなことは絶対にしたくなかった。
お産は病気ではなく、誰でも経験しうることで、多くが無事生まれ育っていく。けれども、医学が発達していなかった時代にお産で命を落とすことがまれではなかったように、やはり女性にとっては「命を懸けて」のことに違いない。経産婦であっても、年齢が高ければ高いほどリスクも多い。
それに、かろうじて自分のことは自分でできてはいるが、いつ倒れるかわからない義父母のことも頭にあった。
義父は割りと新しい考えをしてはいるが、それでも昭和一桁生まれ特有の昔の考えを固持している。息子夫婦が頑固に別居を決意したから、仕方なく折れたけれど、今でも一人息子は親と同居が当たり前なのにそれをしていないと思っている。
病気の親の面倒は、息子の嫁が見るのが当たり前。それが別居しているからできていない。自分の妻が、嫁には面倒をかけたくないと言うから自分がしているが、本当は自分がすることじゃない、でも、仕方がない、と、言葉の端々から感じられる。
義母のわがままが過ぎているので、愚痴も苦労もたくさんあるくせに、介護サービスをどれだけ進めても受け入れない。一人息子が親と住まずに病気の親の面倒も見ず、よそ様に介護を押し付ける。そんな風に思うらしい。
義父ならば、この年齢になって子どもを授かって、その子が育つ中で、「今頃子供なんか作って産むなんて。この子さえいなければ、自分達の面倒ももっと見てもらえたのに。」と否定することもあるだろう。
反対に、何もかも考えず、産まれたら産まれたで、なんとでもなる!と、そんな思いもあった。高2と中3の娘も、新しい命を喜んで受けて入れてくれるだろう。私や旦那さんができないことも、娘2人が一緒になって育ててくれるだろう。
最初の何年かは大変だろうけれど、それぞれが成人していくから、経済的にももしかしたらそんなに大変じゃないかもしれない。子どもが成長していく過程で、絶対に先に逝ってしまうだろう義父母だって、子どもがいるとなれば何がしか残していってくれるだろう。
自分達の体力のなさは娘達が助けてくれるだろうし、経済力のなさはなんだかんだ言っていても義父母は援助してくれるだろう。生まれてくる子ども自身だって、成長するにつれ、自分のことは自分でできるようになっていくだろう。
先の心配をしなくても、新しい家族ができれば、新しい生き方を選ぶことができる。それも、絶対に幸せの一つであると、そう思いもした。
5月の16日に妊娠が確定して、17日に流産の疑いがあると言われるまでの間に、いろんなことを考えた。どうしよう、どうしたら一番いい?と、旦那さんと考えた。すぐには結論が出ない。でも、産まないのなら早く結論を出さないといけない。もし、産まないなら、自分の体だけが痛い思いをする時期までに手術をしたい。いろいろと考えた。
17日に稽溜流産の疑いありと診断された時は、本当に複雑な思いだった。私は、なんというか、妊娠したら絶対に赤ちゃんは順調に育ち、普通に産まれるものだと思っていた。
変な言い方だけれど、自分達の意思で中絶することはあっても、流産することは絶対にないと思っていた。
それなのに、お腹の中の赤ちゃんは育っていないかもしれないと言う。不思議だった。自分の体には特に何も変調はない。
23日に99%流産が確定された時には、つわりも軽く始まっていて、船酔いしたみたいに気持ち悪かったりしたのに。
症状は明らかに妊娠初期なのに、赤ちゃんは育っていない。育っていない赤ちゃんをお腹に抱く。なんとも複雑な言いようのない気持ちだった。
旦那さんも、この子を産むかどうか大きな葛藤があったが、流産と診断されたらされたで、やはり複雑だったようだ。細かい感情は表には見せなかったが、起伏は大きかったようで、子ども達に「お父さん、最近何か変だよ。」と言われていたりした。
26日に出血が始まったと自覚した時、「ああ、流れていってしまう。」と思った。短いご縁だったなあ・・・と。産むかどうか迷ったくせに、流れていってしまう我が子を思うとやはり哀しかった。
29日には、陣痛と同じような痛みがあって、どうしようもなく、睡眠も途切れ途切れだった。30日に受診するからその日は耐えていたけれど、この痛みは紛れもなく陣痛だなあと思った。
2人の子ども達を産んだ時に、やはりこんな痛みだったなあと思い出す。あの時は、望んだ妊娠で子ども達も順調に育っていて、やっとこの世に産まれてくれると、その痛みに絶えてあまりある喜びが待っていた。
同じ痛みなのに、流れていってしまうんだ・・・と思った。流れていってしまう子でも、産みの苦しみは痛みは同じなんだな。私は一生この子のことを忘れないだろう。形には残らなくても、私はこの子を産むんだと。
30日はあまりの痛みに自分ひとりでは病院に行くこともできず、旦那さんについていってもらった。
病院で処置してもらい、赤ちゃんが流れて行ってしまったあとも、すごく痛くて、だるかった。帰りの車の中で、どうしようもなく泣けてきた。人間って勝手なものだ。産まないと決めたかもしれない赤ちゃんだったのに。それでも、こうやって流れていってしまったら、どうしようもなく泣けてくる。
夜も後産がすごく痛くて、なかなか眠れなかった。何もできずに痛がっている私を見て、旦那さんは辛そうだった。
痛くて、辛くて、涙が出た。ごめんね、さよなら。と思いながら、痛みに耐えた。
31日は体もずいぶん楽になり、気持ちも落ち着いてきた。前の夜に眠れなかった分、朝から昼過ぎまでしっかり睡眠を取って、自分のためにサンドイッチを作ってお昼を食べた。ゆっくりと過ごして、最低限の家事をした。
6月に入ると体の方もだんだんと元通りになっていくから、日に日に楽になっていく。1週間も経つとほんの少し前にあんなに痛くて辛かったことなど忘れてしまったかのように、普通に日常が戻ってくるんだな。なんだか、夢みたいな感じ。
深く考えると、とことん考えてしまいそうだから、あえて、さらっと受け止める。強く思い込んでしまうと、とことん思い込んでしまいそうだから、あえて、弱く思う。
だからと言って、真剣じゃないわけではない。時がたてば、また考えることもあるんだろうか。
書きとめると、言葉が足らない気がする。書きとめてしまうと、これがすべてのように見える。でも、書ききれない、言葉にならない思いもあって、それは現すことはできないみたいだ。
このまま時が過ぎれば、現すことのできないこの想いは消えていってしまうのかもしれない。このままどこかへ消えていくか、自分の中に降っていくのか、それもわからない。
でも、多分、こうして書いている以上の想いがあることだけは、この先の自分に「忘れないよう」言っておきたい。その意味も込めて、ここにこうして書き残して置く・・・。
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Comments
黒子さん、ありがとうございます。こんにちは(*^_^*)←順序が変だ(笑)
お久しぶりです。お元気でしたか?
完璧!とはまだまだ行きませんが、ずいぶん楽になってきました。
そろそろ、鈍った体力を回復しなければ、新しい仕事も探せないので、体力づくりしなくちゃ・・・って感じです。
私も某掲示板では前はハンドル違ってたんですが、自分でわかんなくなってきちゃったので(笑)統一しました。
会社を辞めちゃうんですね。新展開ですね。やっぱり某星占い当たってるんでしょうか?(^_^;)
Posted by: 管理人 | 2007.06.08 12:43 PM
某掲示板を見て、えええーっと思ってぶっ飛んできました。お体その後どうですか、お大事になさってください。
あ、挨拶飛ばしてもうた、お久しぶりです黒子です。
某掲示板の方にお名前を発見した当初は「やっほー」とか声かけちゃおうかなとも思ったんですがこっちとあっちで私ハンドルが違うのでやめときました^^;
私は私で会社を退職する予定です。
お互い人生の新展開楽しみにがんばりませう。
ではまたきます!
Posted by: 黒子 | 2007.06.08 10:00 AM