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May 2008

2008.05.23

今さらですが・・・

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 今夜はちょっと時間があったので、何気に自分の日記を読み返していた。みんなのくれたコメントが暖かくて、ジーンとしてます。

 義母の介護をしている時は、思うこともいろいろあったし愚痴もあったし大変だったりもしたし、それなりに必死だったけど。
 でも、今、日記を読み返して思うのだけど、義母はとても大事な時間を大事な気持ちを私に残してくれたのだなあと。
 みんなのくれたコメントも本当に心のこもった暖かいもので、その時には気がつかなかった思いも、今なら感じられたり・・・。
 いろんな大きな暖かい思いに支えられて、自分は生きていたんだなあと、ものすごく幸せを感じてます。

 それと、毎日が動き出して、それなりに忙しいから忘れているのだろうけれど、日記を読み返してみると、やっぱり義母がいないことが寂しいんだなあって自分で思います。
 一緒に住んでいたわけではないし、嫁と姑だからそれなりなこともあったはずなんだけど、最後に幼女に還ってしまった義母が切なくて愛しかったからかなあ・・・。
 心底はどうだったかはわからないけれど、取り残された子どものように不安な面持ちの義母が、私の顔を見ると安心したような表情になるのが切なくて愛しかったなあ。
 もっと、抱きしめてあげれば良かったかなあなんて、今頃思ったりします。

 ここ数日は、お天気が良すぎて暑いくらい。仏壇のお花も一週間するとしおしお・・・になってます。
 今日は、オレンジ色のカーネーションがとてもきれいだったので、白い野菊と合わせてお供えしてきました。
 
 義父はデーサービスの利用を始めて3回目。「年寄りしかおらへん!」と初めは憤っていたようなところもありましたが、施設へ行くとリハビリ用の器具とかあって、スタッフがいるところでそれらを利用することにメリットを見出し、週一度スポーツジムへ通うような感覚に気持ちをシフトしつつあるようで・・・。
 昼食も出るし送迎もついているので、それこそスポーツジムへ行っているようなつもりでいいから通って、弱った足がさらに悪くならないように頑張ってほしいです。

 
 本当に・・・。私は幸せなのだなあ・・・と。そんな風に思います。
 遠く離れていても心のどこかで繋がっているみんなと、一緒に頑張ってくれる家族と、死んでなお幸せを教えてくれる義母と、親孝行をさせてくれる義父と、いつも自分を心配してくれる実家の両親と祖母と。
 みんなの幸せを願います。せめて皆が私にくれた分だけでも、皆にお返しで来たらいいです。いつか、どこかで。

 と、言うことで、全然関係ないけど!写真はかの有名な「ひこにゃん」です。いや~、和むわ~(笑) これ見たら、ちょっとだけも幸せになれる?

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2008.05.19

お魚な夢

 夢を見ずに眠れたら、疲れないのかなあと思う今日この頃(笑)
 私の夢は総天然色です。さすがに匂いは感じませんが、時々感触などはわかります。
 で、最近の夢は・・・。

 空中を魚が泳いでいる。魚はシュークリームのようなごわごわした顔をしていた。まるで水の中を泳いでいるような感じで空中を泳いでいる。
 私は停車しているワゴン車のような車に乗っているのだが、その中に魚は入ってきた。3匹くらいいたかな。その魚の前にてんとう虫が来て羽を広げて飛ぼうとするので、それに気がついた魚に食べられそうになる。目の前で食べられるのはちょっとイヤだなあと思い、それを手でごまかしててんとう虫を助けた。
 でも、てんとう虫はそんなことはお構いなしに、また羽を広げる。魚はそれを食べようと身体を揺らすが、私はてんとう虫を手でつかんで外に出した。
 別の魚が泳いできた。黒っぽい身体に金色の飾りのついたプラスチックのような大きなうろこをつけている。キラキラと輝いてきれいなのだが、なんとなく不気味だった。
 それらは目の前でそのうろこを外すと、魚だったのが人間の姿になった。インドから来た子どもで遊んでほしいと言う。突然そんなことになると人は怖がるだろうから、挨拶の言葉を教えてあげた。 日本語では「こんにちわ」英語では「HELLO」と言うんだよ、と教えてあげた。

 なんだかよくわからん・・・。

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2008.05.18

季節は変わる

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 通勤途中に梨園が並んでいるところがある。本物の梨園(笑)歌舞伎世界とかじゃなくって。
 秋になれば、たわわに実った梨が梨園の脇で売られている。この辺じゃ、ここの梨は甘くて大きくておいしいと有名。

 私は今の職場に梅雨の頃から勤めたので知らなかったのだが、梨の木は4月中旬に花を咲かせる。写真に撮ったのは20日過ぎだが、これで満開。この後1週間くらいで花は消え、ゴールデンウィークを過ぎたあたりでは、もう葉桜ならぬ葉梨になっていた。

 これからどういう風に実をつけ、あのおなじみの梨の実になるのかは知らないが・・・。去年は夏くらいには一つ一つ袋をかぶっていたから、もう一ヶ月もしたら小さな実がそこかしこになっているんだろうな。

 あっという間にそんな時期がくるんじゃないか?と思いながら、そこを走るときはゆっくりと走りながら梨園を観察している。

 季節の移り変わりを身近に感じながらの通勤は、かなり楽しい。

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2008.05.13

百か日を終えて・・・③

 と、いうわけで、義母が意識不明になってからお葬式が終わるまで怒涛のような時間が過ぎて行った。
 終わってからも、旦那さんともども会社の休みをもらった関係で、すぐに家の片付けや不用品の整理をした。本当にあっという間に時間は過ぎて行った・・・。

 それから、寒い季節を過ぎ、春が来て、少しずつ落ち着き始め、新しい時間の流れができようとしている今日この頃・・・。

 「老い」は哀しい。切ない。一人になった義父を見ていると、無常を思う。
 けれども、「老いる」ことは辛い事でも哀しい事でも寂しい事でもないと、そうも思いたい。自分が老いた時、もし、伴侶が先に逝ってしまった時、「老いてこそ素晴らしい」と思える人生を歩きたい。

 去年、子どもが流れてから、義母の介護に時間や気持ちを注ぎ、私は自分の周り(近所や学校関係)の付き合いを絶っていた。目の前の現実と本当に身近な子ども繋がりな付き合いとのギャップについて行けなかったからだ。皆が話している子どもの問題や受験や旦那や旦那の実家の愚痴やら、ランチや流行の服やかばんの話し、ブランド物の話、そういうものと直面している現実とのギャップを埋めることができなかった。
 義母の介護や病院の付き添いとか、これ幸いとそれを理由にそういった付き合いを絶っていた。

 本当に必要なものは?本当の幸せは?

 付き合っていた彼女達が薄っぺらいわけでも、悩みがないわけでも、体験してないが故の脳天気なわけでもなく。目の前の事実が現実が違うだけなのだろうと思う。
 でも、それらと今の自分との思いや考えがかけ離れているから、今さら、以前のように屈託なくそういう話に興じる気になれない。
 また、彼女達の中にもっと深刻な事実や思いを抱えた人もいて、その人の思いや考えを私が理解しているか?と言えば、そうでもないだろう。私と同じように、興じる気になれずとも、ギャップを埋めて変わらぬ付き合いをしている人もいるのかもしれない。
 どうすることが一番いいのかはよくわからないけれど。私は義母が亡くなって3ヶ月以上たつというのに、まだ、彼女達と連絡を取って以前のようにランチや買い物に行こうという気になれない。

 もしかしたら、このまま、彼女達との付き合いはなくなってしまうかもしれないなあ・・・と思いながら、今を過ごしているが、いつかまた屈託なく話しに興じる日が来るのだろうか?

 今は、毎日アルバイトに出かけ、帰りに義父の家により晩ご飯を用意してくる。実家にいる間に仏壇のお供えやらお花を新しくしたりお水を変えたりする。
 義父の話し相手を少しして、密かに郵便とかに目を通し(最近物忘れがひどくなってきたので、さり気にチェックしている。そうしないと大事な郵便物の存在を忘れることが多くなってきたからだ。)、目に付いたところを掃除したりする。家に帰ってきて、晩ご飯の用意をして洗濯物を片付けて。
 朝はお弁当を長女が作ってくれるようになったので、少し余分に寝ていられる。起きてきてしばらくすると子ども達が出かけていくのでそれを見送り、洗濯を干して、お風呂の掃除をしておく。ワンコとにゃんこのトイレ掃除をして、軽く掃除をして、旦那さんを見送って自分も出て行く。
 週末は、時によって一日実家へ行き、掃除や洗濯や布団乾しを手伝う。そうしない日でも晩ご飯は義父も交えて食べることにしている。

 アルバイトもずいぶんと慣れてきたし、会社も私の環境に理解を示してくれるので、柔軟に対応してくれるのでありがたい。
 事務所の人も社長も相変わらず気さくで、今のところ働いているのが苦にならない状況なので、とても助かっている。

 そんなことで、以前のような学校関係の付き合いがあった友人達とは、相変わらずまったく連絡を取っていない。(向こうからも来ないのだけどね(^_^;)
 にもかかわらず、それが以前ほど苦にならないと言うか、気にならないと言うか・・・。

 最近は、喘息やらなんやらで体の調子も万全とは言えなくて、何かにつけて完璧にきちんとしないようにとしている。だから、部屋の中は雑然としているし、一度何かで散らかってしまうとなかなかすっきりと片付けることができない。

 ああ、あともうひとつ。義母を亡くして思ったことは、「自分の思い入れのあるものは他人の宝物ではない。」と言うことだ。

 義母の世代は第2次世界大戦中が育ち盛りで、戦後の物のない時代が青春時代だった。そのせいでもあるのか、当時の大企業に勤めサラリーの多かった義父母は、自分達のほしいものをたくさん購入したみたいだった。
 また、当時の役職も影響して頂き物も多かったようで、義母が亡くなって家中を整理したらびっくりするくらいの「物」が出てきた。おまけに昭和一桁生まれの人の性分なのだろう、物が捨てられない、何もかもがもったいなく、また何かに再利用できると、いろんなものが残されていた。

 衣服から装飾品、日常品、食品、食器、台所用品。義母を介護するために片付けた時の何倍もの不用品があふれ出てくる。(それでも、義母関連のものだけなのだから、義父のものも整理したらどれだけのものがまだ残っているのだろう。)
 どれもこれも、義母が生きていたら、こう言うだろう、ああ言うだろうと思うし、これは孫達にあげようと思って取っておいたのだろうなあとか、いつかは私にくれるつもりで置いていたのだろうなあとか、思い出があり、もったいなくて、積もりに積もったのだろうなあと、そう思うものばかりだった。
 感慨にふけっていたら、本当にどれこもれも捨てられないものばかり。半ばあきれ、半ば悲鳴をあげ、半ば泣きながら、それらを片付け、不用品として処分する。

 辛い作業だった。切ない作業だった。
 こんな思いは、自分だけでたくさんだ。私は子ども達にこんな思いはさせたくない。
 今まで、いろんなものを集めた。コレクションを始めれば、結構集めてしまうたちなのでいろいろと物がある。
 もう、それはやめにしようと思った。本当にほしいもの。本当に必要なもの。棺おけに入れてまで持っていたいもの。そういうもの以外は買わないでおこうと思った。
 そして、今まで集めたものは、ずっと生きていられたとして、60歳で一度すべてを処分しようと心に決めた。60歳ちょうど、とは言わないまでも、それくらいを目途として、あらゆるものを整理してしまおう。もっとシンプルに、もっとコアに生きたいと思う。

 購入するなら、少々値が張っても、本当に価値のあるものとか本物を手元に置こう。消耗品はどんどん使っていこう。
 今でも物があふれんばかりの我が家。一度には決心がつかなくても、一年に一度は整理してしまう時期を作ろうと思う。

 思い出だけ、心に残して。写真くらいはあってもいいかもしれないなとか思いながら。どの景色もどの出来事も、心に刻んで。子ども達が残しておいてほしいと思うものだけを残して。
 骨となり、土に還る。その時に持っていけるものなどないのだから。
 思いだけを持っていく。そんなことを本当に心から思った。

 あの世へ行ったら、曾祖母が残してくれたポシェットがもらえる。母と祖母とおそろいの。それは小さいもので、A5判くらいの大きさの薄いもの。そこに入るものくらいしかあの世ではいらないってことだなあと、昔見た夢を思い出した。

 現世をありがたく生きていこうと思う。哀しいも苦しいも切ないも痛いもたくさんあると思うけれど。同じだけの嬉しいも楽しいも幸せも気持ちいいもあるはずだ。
 現世を愛しく思い生きていこうと思う。繋がってくれる友や関わってくれる人々を大切に思いながら。
 分不相応なことはせずに、できることをできる時にしながら。ゆっくりと一歩一歩歩いていこうと思う。
 人生折り返してしまったから、年々老いていくから、時間は限られていくから、焦る気持ちがないわけではないけれど。あれもこれもと欲張らず。と、思う。

 さて。
 百か日を過ぎて、そんな日々を過ごしているが、かといって、本当にしたいこととか本当にほしいものとか個人的な欲はどこにあるのか自分でわからない。
 何もほしくない気もするし、何もやりたいことはない気もする。
 とりあえず・・・。こんな思いを書き残せる場所がここにあることに感謝して。こんな思いを読んでくれてコメントを寄せてくれる人がいることに感謝して。

 そんなわけで、自分の思いを整理するためだけのような文章に最後まで付き合ってくれてありがとうございました。これからもよろしく・・・です。
 
 

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2008.05.12

百か日を終えて・・・②

 心臓が止まってしまった義母の元へ駆けつけ、義母を呼んだ。もう、深夜から呼んでも答えはしてくれなかったが、本当に息が止まってしまったのだなと、こみ上げるものをこらえることはできなかった。
 まるで、本当の母を亡くしたように哀しくて寂しかった。何度も何度もその髪を、その頬をなでながら、ただ、泣くしかできないものだ。

 けれど、亡くなってしまったら、急に時間は動き出す。葬儀の段取り、死亡の手続き、親戚筋・会社関係・学校関係への連絡。急なことだったから家の掃除から、いろんな道具類の手配。
 一人っ子の旦那さんゆえ、親戚づきあいを疎遠にしていた義父母ゆえ、段取りがわからない。私は特に義母から何も教わってなかったので、最近の親戚の法事や葬式の流れを思い出すしかなく、なにを用意してなにを段取りしていけばいいのかまったくわからなかった。
 親戚筋も自分の実家も宗派が違い、里のしきたりとは違うので、大まかなことは参考になっても、やはり細かいことはよくわからない。
 後で考えれば、「向こう三軒両隣」という付き合いをしている里のこと、お隣の奥さんなどに詳細を聞けばもっと段取りも楽にできたのだろうけれど、その時はそんなことは思いつきもせず、ばたばたしていた。
 家の中も片付けたとは言え、それは義母を介護するための片づけだったから、葬儀関係の道具類がどこにあるかなどはよくわからず、それを探すのも大変だった。
 お寺さん用の座布団・湯飲みから、集まってくれる人々に出す食器類、座布団、枕経をあげてもらうための道具類、すべてがどこにあるのかを探さなければならなかった。義父の「老い」を痛感する瞬間だった。

 この時に、自分は胸痛と頻脈で救急外来を受診したわけだが、その時は「頼りの義父はまったくあてにならず、誰にもヘルプを頼めない~。」と、気を張っていたのだろう。
 義父母のことで、いろいろ含みのあった義父側の親戚も、義父の頼りのなさと私達夫婦の必死ぶりとに驚いて、翌日には遠慮がちではあったけれどあれやこれやとアドバイスをくれるようになった。
 まったく、ありがたいことだと、心底感謝した。とにかくわからないことだらけなのだ。法事関係を何度も経験しているおばさんや従兄のお嫁さんたちのアドバイスが頼りとばかり「おせっかいと思わず、何でも教えてください。後からでも今すぐでも先回りしてもいいからあれもこれも一から十まで、何でも教えて。」と頭を下げた。
 そのせいか、お通夜が終わり葬儀が終わり、初七日を終えた頃には、ぎこちなかった親戚がずいぶんと打ち解けて話してくれるようになった気がする。(49日の法要の時にはすっかり親しくしてくれ、続けてあったおばの三回忌の時にもずいぶんと気さくに接してくれるようになって、ありがたく思っている。)

 湯灌の時、葬儀屋さんから思ったよりも若いスタッフが事に当たってくれた。死んだ人は重いだろうに、若い女性と男性スタッフの二人はもくもくと丁寧に仕事をこなしていく。親族が最後にお湯をかけ、身を清め、死に装束に着替えさせる。
 その姿を見ていても泣けてきて仕方ない私に、女性スタッフが一緒に着せてあげてくださいと足袋を履かせるのを手伝わせてくれた。壊死を起こしていた足に足袋を履かせる。「もう痛くないねえ。」と言葉が出て、何度も撫でて「頑張って極楽まで歩いていくんだよ」と声をかけた。

 お通夜も葬儀もたくさんの人がお参りに来てくださった。約200人あまりの方がお参りに来てくださり、本当に感謝している。
 旦那さんの会社関係の人が多く来ることがわかっていたので、私は自分の友達には本当に最小限しか連絡しなかった。比較的近場に住む親友と、先年父上を亡くした近所の友人(こちらは葬儀に出させていただいたし、友人家族だけでなく、その母上様とも懇意にしていただいているので)にだけ連絡した。寒い夜だったけれど、お通夜に来てくれてありがたかった。
 旦那さんのジープ仲間もたくさん来てくれて、久しぶりに会う彼らの顔を見て、年の流れを感じたりして・・・。

 お通夜も葬儀も立派にしていただいて、息子大事だった義母は喜んでいるだろうと思った。棺に横たわった義母は、従兄のお嫁さんにきれいにお化粧してもらって、病んでなくなったとは思えないほどしかっりした顔つきだった。
 今にも起き出して何か言うのではないかとそんな風に思える。そこに棺はあるのに、集まった家族の中に義母がいないことが不思議で、家に帰ったら「留守番していたよ」と義母がいるのではないかとそんなことを思ったりもした。

 お経を上げている最中も、棺の顔を見ているときも、後から後から涙があふれてきてどうしようもなかった。
 あわただしく葬儀の準備や弔問客の相手をしているときはそうでもないし、その場を離れてしまえばまた違う。けれど、読経が始まると義母を思い出して泣けてくる。
 もう、いないのだなあ・・・と、もう、傷の手当ても病院の付き添いも、晩ご飯の用意もお風呂の介助も、全部、全部、することはなくなるのだなあ・・・と。

 3人いる義母の姉弟で、死に目に会え、お通夜も参列できたのは、伊勢の叔父だけだった。死に目に会えなかった、一番仲良くしていたすぐ上の姉に当たる叔母は、お葬式の当日、棺の中の義母を見て「自分より先に逝っちゃって・・・。」と泣いていた。
 葬儀も終わり、棺に花を敷き詰める。眠ったような義母の顔。本当に不思議だった。

 焼き場へ行って、これが最後のお別れという段になっても、今行われていることが事実と思うのは不思議な感覚だった。花に囲まれて眠るような義母は静かに焼き場へと入っていった。

 お通夜もお葬式も焼き場で待っている間もそうだったけれど、従兄の子ども達が小さいものだから、きゃあきゃあとそこらじゅうを走り回っている。「じじババの葬式は孫の祭り」とこの地方ではよく聞く言葉だが、本当にそうだなと思って子ども達を見つめる。幼い子ども達は誰が死んで誰が哀しんでいるのかもわからないのかもしれない。

 突然とは言え、一般的に見たら歳相応にあの世に逝った義母。誰も彼も寂しいと思いこそすれ、引き裂かれる別れではなかったからか。
 先年なくなった叔父も歳相応だったから、今と同じような雰囲気だったことを覚えている。それに引き換え、交通事故で突然亡くなってしまった叔母の葬儀は、誰もが沈痛な面持ちで言葉すくなだった。

 義母は亡くなる前の日まで壊死した足が痛み、本当は泣きたいくらいつらかったに違いない。治療をすれば悪くはならないが、良くはならないことも漠然とわかっていたのだろう。こんな痛みから逃れるためなら、こんな情けない思いから逃れるためなら、早く死んだほうがましだとこぼしていたし・・・。
 後からも何度も思ったけれど、そんな義母を思うと、このタイミングであの世へ逝けたことは義母にとっては幸いだったのかもしれない。そんな思いが家族の中に少なからずあるせいか・・・。

 焼き場から出てきた義母はきれいに骨になっていた。しっかりした体格の人だったからか、骨もしっかりと残っている。
 人は死ぬとこうなるのだな・・・。ただ、寂しいとそればかりだ。
 旦那さんは骨になった義母を見て、どこかすっきりしたと言っていたが、私はちょっと違うなと思った。
 ただ、無性に寂しい。哀しい・・・と言うのは少し違う。できることはなんでもしたし、自分の怠惰さに負けないよう頑張った。真実、義母の本当の気持ちを知ることもわかることもなかったろうけれど、せめてその心に寄り添えるように頑張った。

 いないことが寂しいと、心底思う。

 ああ、人は、ただそこにあるだけで、本当に素晴らしいのだと、心から思う。

 義母は旅立って逝った。苦しみも痛みもない世界へ。願わくば生前の一番きれいだった、一番元気だった姿で、後から逝く義父を迎えてあげてほしいと思う。

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2008.05.11

百か日を終えて・・・①

 義母の百か日を9日に終えた。家族だけでつつましく行うつもりだったが、近所に住む叔父(義父の妹婿)が、皆に連絡するものだと言って、叔父本人と母家の跡取りがお参りに来てくれた。
 たまたまなのだが、義母の49日が3月にあったあと、叔母の三回忌が4月の半ばにあり、叔父の三回忌が7月半ばにある。そして、義母の初盆が8月の中ということで、法事が立て続けになってしまう。ただでさえ、法事の時は一日つぶれるわけだし、それぞれ他にも付き合いがあり、また、法事と言えば、何かと物入りでもある。
 里は初盆は結構派手に法事を行うが、百か日はその家それぞれのやり方で家族だけで行っても問題はないとお寺さんにも聞いていたので、いろいろと考慮して、うちはどこにも連絡はしなかった。が、近所の叔父は、時々、義父の様子を見に来てくれていたので、百か日のことも知っていてそう教えてくれたのだった。
 上記のような理由を言うと、そういうこともあってもいいと納得はしてくれたが、やはり知っているのに来ないわけにはいかないと、母家の跡取りと共に来てくれたのだった。

 さて。
 実は、義母の死んだ時の様子を1週間くらい後から書きとめておこうと、下書きをしていた。それをブログ上で公開するかどうかは考えていず、とりあえず覚書として書いていた。
 それを書いてからすでに3ヶ月たっている。今、読み返しても涙が出てくるが・・・。
 本当は、もう、それ以上を書くのも公開するのも止めておこうと思っていた。けれど、アクセス解析を見たり、コメントやメールをして下さった内容を見ていると、やっぱり残しておこうと思い直した。
 人の「死」と言うのは何かと物を思うものである。たいしたことは何も考えられずにいるが、それはそれで正直でいいのかもしれないと、ただ、あったこと、思ったことを淡々と記することにする。

 以下、文章を分けてアップするが、先ずは、義母が亡くなる当日の深夜の出来事から・・・。

++++++++++++++++++++

 下記の文章を書き出したのは、義母が亡くなってから一週間過ぎた頃。その頃は、実家へ行って、白木の祭壇にかかっている義母の遺影を見るのがとても不思議だった。家に入っていくと「よう来てね。」と義母が声をかけてくれる気がした。

 1月31日深夜。午前2時過ぎに義父から旦那さんの携帯に電話があった。「苦しいから救急車を呼んでほしいと言っている。」と言うのだが、どこがなにが苦しいのか、義父も気が動転していて要領を得ない。義母が話せるかどうかを聞くと受け答えはちゃんとすると言うので、「どこが苦しいか聞いてもう一度電話して来い。」と旦那さんが義父に言っていた。
 私は初め、旦那さんへの電話は会社の誰かから仕事の話しかと思っていた。話が進むうちに義父からだとわかり、「大丈夫?」と問うと「わからない」と旦那さんは言った。
 5分もたたぬ間にもう一度電話がかかってきて、「俺ではどうしていいかわからない。」と義父は言う。「じゃあ、とりあえず、すぐに行くからな。」と服に着替えてすぐ家を出た。

 夜中のことなので実家までは10分もかからずに行ける。家に着き、義母のそばまで行くと、呼吸は普通にしていた。
 呼びかけても反応がないので、低血糖かと思い、声をかけながらブドウ糖を口に入れ、水を飲ませる。最初の一口は確かに飲み込んだが、2口目からは飲み込む気配がない。「聞こえていたら手を握って」と声をかけても反応がない。
 「意識がないぞ。」と義父に言うと「さっき、お前らが来るぞと声をかけたら、頷いて返事したぞ。」と言う。詳しく話を聞きだすと、最初に電話をかけてきた30分ほど前にトイレに行きたいと起きてきた義母を義父がトイレまで付き添い、ベッドに帰ってきたら、「足が痛い、苦しい。」と言って横になったそうだ。そして、あまりに痛がるのでどうしたのかと聞いたら「苦しいから救急車を呼んでくれ。」となったらしい。
 2回目の電話を切って、すぐに「来てくれるから少し我慢しろ。」と言ったら、ウンウンと頷いて「来てくれるんやな、良かった。」と返事をしたと言う。

 5分たっても意識が戻ってこないので、すぐに救急車を呼んだ。とっさに旦那さんが義母の目をライトで照らしたが、瞳孔が動かない。その間、ほぼずっとそばにいたが、義母はまだ呼吸をしていた。
 5分たつかたたないかの間に救急車は到着し、義母を運んでくれる。救急隊員に運ばれ、救急車内ですぐに心拍数や血圧を測るが、その時には心臓が停止していた。
 同乗していくのに、助手席に座ると「心拍停止のため、心臓マッサージを行います。」と告げられる。AEDの準備ができるまで隊員の一人が手で心臓マッサージをし、救急病院へつくまで、ずっと心臓マッサージは続いた。
 ERへ運ばれる途中も、途切れることなく心臓マッサージは続けられた。緊急処置室へ運び込まれ、医師や看護士に手渡されても引き続いて心臓マッサージは続けられていたようだ。

 5分、10分ほどして、担当してくれた医師が「万が一も考えてください。人工的に息を続けさせ、生かすことはできますがどうされますか?」とたずねてくる。なんだか信じられない思いで「一人では判断できません。せめて義父と主人が来るまで生きていてほしい。」と答えるのが精一杯だった。
 それから10分くらいして義父と主人が駆けつけた。心拍停止のため心臓マッサージをしながら運ばれて、医師から言われたことを告げると、義父も旦那さんも信じられないと言った顔をしていた。
 そりゃあ。義父と私にしてみれば。昨日の朝は、普通にしていて、病院も一緒に行って、お昼ご飯はサンドイッチをおいしそうに食べて、夕ご飯はお刺身を「おいしいねえ」と言って食べて。今日は病院に行ったから、痛い消毒はもうしなくていいねと言ったら「いつもありがとうねえ。」と笑顔をくれたのだ。「明日も夕方に来るからね。頑張っていてね。」と言ったら「うん、頑張らないとねえ。」と言っていたのだ。普通にそうして一日が過ぎて行ったのに。

 どのくらい時間がたったか、義母を運んでくれた救急隊員の人が「ご自宅からこちらまでできることはすべてさせていただきました。今、医師が診てくれていますので、もうしばらくお待ちになっててくださいね。我々はこれで失礼いたします。」と挨拶に来てくれた。
 前回はこんなことは言われなかった。それだけ、義母の容体はよくないのかと、つらかった。
 それからしばらくして、ちょうど当直だったと言う心臓外科医が経過状況を教えてくれた。
 「糖尿病と加齢による動脈硬化が進んでおり、それが原因で心臓の弁が非常に固くなっています。そのせいで、血液を送り出すのに心臓に大きな負担がかかったと思われます。」と言われ、旦那さんが「意識がなくなる30分くらい前にトイレに行った。」ことと「救急隊員が来るまでは息をしていた。」ことを話す。
 もしかしたら、トイレに行って急に寒いところに行ったこと、救急車まで運ばれる間に外気に触れたことが原因の可能性が高いかも知れないと、思い至る。
 「強心剤などを使い心臓を動かし、人工呼吸器を入れ、生かすことはできす。心臓が停止していた時間は短い方ですが、意識が戻る確率は非常に低いと思われます。また、お年と既往歴から判断すると、意識が戻ってもご自分の体力で心臓を動かすことは難しく、それによってご本人の望まれない結果になる可能性はとても高いと言わざるを得ません。」と、そのような内容のことを医師は私達に気を使いつつ、ゆっくりとわかりやすく言葉を選びながらそう話してくれた。

 お正月がすんでから、左足の傷がひどく痛み、とうとう壊死を起こし始めていた義母。痛くて痛くて、その苛立ちから義父に悪態をついたり、ものすごく落ち込んだり、苦しんでいた義母。それでも、足を切りたくない、この家から出たくないと頑張っていた義母。入院は絶対イヤだと、痛いのに痛いと言うのを我慢していた義母。
 そんな義母を思い起こすと、可能性のない延命措置を行うには忍びなく・・・。義父も旦那さんも、自然に任せる事を選んだ。
 「今日(31日)の昼が峠です。それを乗り越え小康状態になれば、数日。それを超えれば時間はわかりません。けれども、こう話しているうちにも心臓が止まる可能性も充分考えられます。会わせたい方がいらっしゃるなら、すぐに連絡して来てもらってください。」と医師は言った。
 
 時間を見ると午前5時前。家を出る前に目を覚まして様子を見に来た長女に行ってくると言葉をかけたけれど、こんなことになっているとは知らずに眠っているだろう。
 それでも、早ければそろそろ長女は起き出してくる時間だったので、旦那さんが電話をして子ども達を迎えに行った。
 その間、看護士が入院のために、日頃の様子や既往歴、通院していた病院などの説明を義父と二人でする。いつ亡くなってしまうかもしれない義母のために、看護士はいろんなことをきめ細かく聞いてくれた。

 午前5時半ごろ。子ども達がやってきた。意識のない義母を見て、二人とも涙ぐんでいた。
 午前6時をまわって、実家の両親や義母の姉弟、義父の親戚に連絡をする。長い廊下に朝日が差し込みはじめる。オレンジ色の太陽の光が廊下を染めて、とてもきれいだった。
 病室を整えてもらっている間に、担当医師からもう少し詳しい説明を聞いた。義母の症状は大動脈弁膜症と診断された。もし、もっと早くに自分のような専門医が診察していても、早かれ遅かれ同じような症状に陥っただろう、もたせてあと2、3年。と医師は言った。
 秋口に入院した時。かかりつけの医師が、義母の体力・内蔵機能は実年齢より10歳上だと思ってくれと言っていた。認知症と糖尿病、脳梗塞に甲状腺。それらを考え合わせると、いつどうなるかもわからないとも言われた。
 覚悟はあったものの、こんなに早く・・・と思う。足を切断してまで生きながらえてくれるとは思わなかったけれど、せめて一年。せめて夏まで。せめて春まで。そう思っていたのに。

 義母の姉弟は近辺にはいない。おまけにすぐ上の姉に当たる人は、ご主人が介護が必要な身の上なので急には来れないと言う。一番下の弟がご夫婦で伊勢から駆けつけてくれた。
 義父の親戚はみな近くにいるので、おじ達は出勤前に来てくれたし、一緒に来てくれたおば達は結局最後までいてくれた。
 旦那さんと二人、ずっと義母のそばにいた。意識がなく、人工呼吸器で生かされている義母だったが、声は聞こえているからと、いつものように話しかけた。
 私一人になった時、義母の頭をなでながら、「ありがとう」と話しかけてた。「旦那さんを産んでくれてありがとう。立派に育ててくれてありがとう。結婚させてくれてありがとう。娘にしてくれてありがとう。介護させてくれてありがとう。親孝行させてくれてありがとう。」いっぱいいっぱいありがとうを言った。

 と、ここまで読み返してやっぱりまだ泣けてくるなあ・・・。

 どちらにしても義母はもう行きつけの病院にも通うこともできないだろうし、デーサービスも利用できなくなる。とりあえずケアマネージャーに電話をして、経過を説明している途中、長女が呼びに来た。
 それこそ、糸が切れたみたいに心電図の動きがなくなったみたいだった。

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2008.05.04

速くてびっくり・・・・

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昨日は、京都へ行って来ました。
新名神が開通したので、そちらを利用しましたが・・・。いやあ、速い!びっくり。以前なら、速くても2時間半、平均3時間はかかっていた道のりが、なんと1時間半。で、ETC利用なら、早朝の割引を使って1000円前後の高速代(利用インターで400円くらい差が出るので・・・)。
街中も100円パーキングがあちこちにできているので、それらを上手に利用すれば、駐車料金も安くなるし・・・。
そんなわけで、今回はいつもどおりでかけた割りに、時間的にゆっくり過ごせました。
午前中は、友達に会って、伏見さんにお参り。友達のお母さんのお墓参りしたり、お話ししたりしている間、だんなさんと下の子は伏見さんの御山へ登っていたのですが、日頃の鍛錬不足からか「膝が笑ってる~~」と下の子は言っていました。
昼からは祇園界隈を散策し、その後、街へ出て軽くお買い物。
いやあ、たまに行くからこそなのでしょうけれど、やっぱり京都はええなあ・・・でした。

1枚目の写真は伏見さんの奥社の社殿。2枚目は鬼瓦がいっぱいで、いかにも「どや!!!!」みたいな写真です(笑)

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