« April 2013 | Main | June 2013 »

May 2013

2013.05.20

父を見送って

 父が亡くなって約一か月。あっという間に日は過ぎる。
 過ぎていくし、実家に行けば遺影があり、祭壇があるし。父はいないので、本当に死んだのだなと思う。
 思うが、本当に死んだんだと。笑うような話しかけるような遺影を見るたびに「どうしてこんなに早く死んだんだ?」と怒りに似た気持ちもある。
 弟たちから見たら、母は父に支配されていたように見える節もあっただろうが、母は父を頼りに生きていた。その支えを失って、独り、時間を過ごしている。
 弟たちも母を邪険に思うことも煩わしく思うこともなく、彼らの誠心誠意で思いやり、心使いをしてくれている。それでも、独りを実感して、ままならぬ心を持て余している母がいる。
 月日が流れていくうちに、母自身も心も慣れてくれるのだろうし、いつかどこかの時点で、しっかり生きていかなければならないと思ってくれると思うが。

 父が2回目に自宅に帰ってきた時。ふと正気に戻った父は、自宅に帰ったのだから以前のように動けると信じたかったのか、動かない足を必死で動かそうとしたことがあった。
 足が動かないから、「足の上に置いてあるものをどかせろ!」「俺の脚に何を入れてあるんや?!」「こんな足で動けやへんのはカッコ悪いやろ!」と怒鳴るようにもがいていた。
 足が動かないことを突き付けられ、身に染みて実感させられたようだった。1時間くらいもがいた後、力尽きて泣き出した。
それから・・・死ぬまで泣いていた。
 
 

 父を自宅で看取ってあげたかった。それもあって、長い一時退院を決めてもらったようなものだった。
 けれども、母はそこまでの覚悟は持てなかった。と、いうよりその瞬間に立ち会いたくなかったのだろう。その瞬間が来ることが信じられず嫌だったのだろう。
 弟のお嫁さんは、親父と折り合いの合わない関係だったから、親父の看護は基本的にはしない、したくないと言っていた。その背景は母も私も弟も十分すぎるほど理解していたので、そのこと自体は何も思うことはない。看護はしたくないといいつつ、私や母や弟が中心となって世話をするときは、いろいろとアシストをしてくれた。体位交換やおむつ交換、着替えなども手伝ってくれたのだ。でも、お嫁さんも、その瞬間に立ち会うには不安がありすぎたのだろう。
 誤嚥性の肺炎を起こしているらしき父の容体が芳しくないとき、酸素を持ってこようかと言ってくれた訪問ドクターに母と二人で「それはできない」と言ったようだった。
 たぶん、弟も私も。自分たちのどちらかが24時間親父に付いていられたら、入院させず酸素を持ち込んで自宅で看取っただろう。弟も私がいるのなら、家で過ごさせたんだと思う。
 しかし、そうできない限り、そんな覚悟をお嫁さんにさせるのは忍びないと思ったんだと思う。母にそんな瞬間に一人で立ち会わせたくなかったに違いない。
 だから、こういう結果になってしまっても、だれを責めることもないし、弟と私が決断した「地元の病院に入院させる」ということも間違っていたとは思わない。
 入院に際しても、お嫁さんは初めての119番への電話をして救急車も呼んでくれた。その前に訪問ドクターに、入院に際する手続きや救急車を呼んで容体をどう説明したらよいかも、母に代わって聞いてくれて、実行してくれた。 入院するときもあれやこれやいろいろ荷物を運んでくれたり、頑張ってくれたと思う。

 それでも、そういうこととは全く別に、父を自宅で看取ってあげたかったといまだに思う。
 どうしても、その思いが手放せない。
 自宅に帰るたびに、うれしさとは反対の絶望も手にする父。再入院するたびに「これで生きて家に帰れない」という思いを持たせてしまう。そんな残酷な思いにこたえるのは、自分の精一杯で建て直したこの家で最期を迎えさせてあげることだと思っていたから。
 だから、「ごめんね」とそんな気持ちが心から離れない。
 今だって、私たちが決断したもろもろが間違っていたとは思わない。みんながそれぞれのベストを尽くして親父を看護し、見送ったんだと思っている。
 それでもなあ。「ごめんね」という気持ちが消せないなあ。
 時間とともに流れていくのだろうが…。

 親父、今、どこらへんかなあ。思うところにはもう挨拶に行けたかなあ。49日がすんだらちゃんとあの世に行くんだよ。
 もう、あの世には祖母と母を迎えて暮らす家もあるんでしょ。そこで母が逝くまで、庭の手入れをしていておくれ。芝生の植わった広い庭だったよ。

 いつか私も行く。同じ世界にね。その時には、先に逝った友達もいるに違いない。誰かがあの世へ行ってしまったときにいつも思う。その時まで、まあ、自分の精一杯で生きるよ。できることをできるときにできるだけやっていきたいと思う。
 
 

| | Comments (0)

父 永眠

少し時間ができてきたので、忘れないうちに覚書。

4月13日
 この日は、旦那さんの母方の伯母の夫(早い話が伯父)が特別養護施設から、伯母が入所しているグループホームに転所するために付き添いに行った。
 伯母は今年の冬に一度風邪をひき、その時にグループホームへ入所した。伯母はあらゆることに関して正常が判断が下せなくなっているのにも関わらず「自分はまだ大丈夫。しっかりできている。一人でも暮らせる。」と認知症の初期にはありがちな状態だったため、旦那さんと旦那さんの従姉妹で相談し、毎日デーサービスに通っていた。そのおかげで風邪をひいて高熱を出して動けない状態の伯母を、迎えに来てくれたスタッフさんが気が付いてくれて、病院へ行ったり入所を手続きしたりとしてくださったようだ。
 その同じグループホームが伯父も受け入れをしてくれる運びとなったため、私たちが荷物の運搬と伯父の移動の付き添いに行ったのだった。
 伯父はもう全く動けない状態で、言葉を発することもかなわないが、こちらの言うことはよく理解してくれる。
 伯母が熱を出し、ひとり暮らしがままならないためグループホームへ入所したこと、同じところで伯父を受け入れしてくれること、今日がその転所日だということ、今から自分たちが付き添って伯母のところへ行くこと。
 すべてを理解し、多少不安そうではあるものの私たちにすべてをゆだね、伯母の待つ場所へ移動した。
 受け入れが完了し、伯母を部屋に連れてきてもらい、顔を見た瞬間、老夫婦は泣き崩れた。子供もなく、50年以上を連れ添った夫婦のきずなをしみじみ感じる。
 その後は、新しい施設、新しいケアマネさんとの契約を交わすため、旦那さんと従姉妹はたくさんの書類に名前を書き印鑑を押していた。
 
 伯母さん、伯父さん、よかったね。子供のいない夫婦で伯母さんたちの老後を、死んだ義母も姉弟たちも心配していたけれど、介護が必要となったのに夫婦が最後も一緒に過ごせそうでよかった。

 その後、地元のクリニックに入院してしまった父のもとを訪れた。父は息も荒く、苦しそうに見えた。酸素マスクを近づけても拒否してつけさせてくれない。尿の量も朝出たきりであまり出ていない様子だという。
 この日は朝から子供たち二人で母と一緒に父の付き添いをしていた。母の従弟がお見舞いに来てくれたので、途中食事に行ったそうだが、ほとんどを一緒にいてくれらしい。
 父の様子を見ていると…。最後が近いと思わざるを得ない。今日、私も旦那さんも子供たちもそろって父を見舞えたことは幸いだろう。

4月14日
 朝からまた父の病室で過ごす。やはり息が荒い。熱も出ている。尿を見てもらったら、利尿剤を使ったので、少し出ていた。
 昼から弟が顔を出し、「舌が下がっているなあ。」という。ああ、もう力がつきそうなのだな。夕方になっても尿が思うように出ない。本当に最後が近いのだろう。
 そう思いながらも夜になれば帰る他なく。
 嫁いだからには実家よりも婚家の親の世話のほうが優先、と覚悟をして一人っ子の旦那さんと結婚したんだから、それは親父もよくよく私に言い聞かせていたことだから、もし、何かあっても親父は何も言わないだろう。
 帰りの車の中、「ああ、もう、本当にお父さんが死んでしまう」と思うと泣けてきて仕方がなかった。「死なないで」という言葉がむなしいくらい、実感として父の死が目の前にある。生きている父を見るのは、多分、今日が最後だろう。そう思う一方で、また火曜日は朝からくるから頑張ってほしいと思う。

4月15日
 未明。携帯に電話がかかって。泣き声の母が父の容体が危ないのですぐに来るようにと連絡してきた。その日は義父がデーサービスに行く日なので旦那さんと上の子に送り出しをしてもらうことにして、すぐに用意をして下の子と向かう。
 自分ではまだ夜中近く思っていたが、外は思ったより明るく、時計を見たら4時40分だった。10分くらい走ったころ、弟から電話で「親父はもう息を引き取ったから、あわてず来てくれ。」と連絡があった。後で、聞いたら、まさにその4時40分が親父が息を引き取った時間だったそうだ。
 病室についたら、少し冷たくなった父がいた。息もせず目も開けず。静かな父が横たわっている。
 もう、話すことも怒られることも泣くこともない。静かに。父は眠っていた。いろんな意味で大きかった父はこの世を去ってしまった。
 呆然とする一方で、現実がある。母は全く頼りにはならないはず。弟だって、冷静にあれこれできないだろう。とにかく、力を合わせて葬儀を執り行わなければ。そう思いながら、しなくてはならないことを弟たちと一緒に考え始めた。
 
 
 

| | Comments (0)

« April 2013 | Main | June 2013 »